こっちにだって言えること

コメ返
>ヤスジンさん それは、願い下げだw

最近もっと広い視野や、色々な角度で
物事を見れたらな、とよく思うようになりました。

「よく出来た物語」には、
その一つ一つに何か意味がある。
なんて、言ったら物語を見る事が
難くなってしまいそうですが
いろんな人が考察する価値がある物語は
人々によって、作者自身も驚くような
意図していなかった解釈が出てくるものだと思います。

そう考えると、物語というものは
一つの輪として成立してなくても
よいのではないかと思っていました。

物語の断片だけを見て
その状況下だけで起きた物事だけが
必要であって、その他要素は関係ないのではと。

そんなことを考えていたある日
唯一文学に触れる時間である
現代国語で
「姿-日本のレトリック」 尼ヶ崎 彬著
を読んでその考えがまったく別の方向へと
切り替わりました。

その内容は、簡単に言えば
ある物事への感情というものを
表現するときにある見立てや型にはめ
その姿を彩る、無形なる物を有形へと形付ける
それがどのように
人の背後関係の捉え方に影響するのか、
といったものでした。

この考えによって
何か自分が一年ほど前から
感じていた歌詞への不満の原因、
自分の視野の狭さ、
というものがはっきりと見えてきました。

そして、その考えの芽生えによって
自分が最初のほうで
物語は成立していなくてもいいのではないかと
書こうとしていたにもかかわらず、
無意識的に「よく出来た物語」
と書いていました。

一つの事象を表現するだけならば
前後関係はまったくと言っていいほど
気にしなくていいものです。

しかし、感情や考えを
随所に表現したものを綴った物が
物語というならば
その物語で、前後関係がはっきりしないと
原因と結果が現れてきません。

原因とは、物語上「過去」であることが多く、
結果は、「未来」でしょう。

原因がなければ問題や話題も起きず、
結果がなければその考えの末路が見えません。

そして、その中間にある「現在」。
これは、これから「未来」に影響する
「過去」になるものであって
その状況は刻々と変わっていくものです。
同時に、「現在」は迫ってきた「未来」でもあります。

「過去」→「現在」→「未来」という型に、はまり
そして、それを繰り返してある時点での「現在」で、
小さくて見落としそうな要因にも気づいて
完成された物語の形に気づくのではないのかと
思います。

それは、無意識にやってきたことかもしれませんが
もっと意識的にやってみたいと思うのです。
少なくとも、物語を楽しむ身である
私は、その完成された形に気づきたく
より、物語を楽しみたいので
視野が広がればと思います。