ブラックボックス(3日目)

あるものの成り立ちや

背景というものは

その道に興味を持った人でなければ

考察することは少なくて

しかしこれが日常的に

瞬間的に行われているかといえば

その場所、時間とは

別の空間で行われることが多い。

例えば、伝統的な行事やお祭り事などは

振り返れば諸説あり、その諸説の中で

最もそれらしいが選ばれたり

また、明確に伝承されているものがある。

その中でひな祭りがある。

ひな祭りでは雛人形を飾るが

雛人形は子どもの身代わりとなり

事故や病気から守ってくれ

子どもの健やかで幸せな成長を祝うために飾られる。

しかし、これは悪く言い換えれば

生贄であり、これが人物だった場合

どうなのだろうと考える。

人の穢れや災難を引き受ける能力を持ち

また、それを祓う能力も持ち合わせた人物だったとする。

その能力に気づいたその人は

「優しさ」で判断しそれを人のために

使うことにした。

しかし、人には限界がある。

寿命がある。力の限りがある。

そうしてこの役目を誰かに受け継がせることにする。

その誰かは、同等の能力を持っているが

自ら判断したわけでなく

「やらなければいけないこと」になってしまった。

この時に「優しさ」はブラックボックス化して

「煩わしさ」に変わってしまった。

そうやって受け継ぎが行われていく間で

ブラックボックス化はますます進み

「煩わしさ」だけになっていく。

そしてその「煩わしさ」を以て

ブラックボックスは有耶無耶にされ

やがてなかったことにさえされるだろう。

誰かがはじめた気遣いや優しくすることが

いつしか「優しさの固定化」が進み

マナーや常識へと変貌してしまった。

よく、「厳しさ」の中に

本当の「優しさ」あるなどという

ことが言われる。

確かに表面的な「優しさ」には

「やましさ」がブラックボックス

されているかもしれない。

そして「厳しさ」というものは

「煩わしさ」が更に進み「厳しさ」になり

それと同時に「優しさ」のブラックボックス化が

強くはなるが有耶無耶にされずに澄んだ結果

なのでは無いかと思う。

マナーや常識を植え付けることは難しく

また、倫理的でないかもしれない。

しかし、そのブラックボックス

その瞬間につついてみるのは

いいことなのかなとは思う。

それは、「優しさ」か「やましさ」か。

また初めのパンドラの箱のような話に戻った。