シャボン玉が割れる理由

最近メモ帳みたいにいろんなところに

思いついたことをばらまく事が多くなったような気がする。

本来どこで吐くべきなのだろうと考えたら

別に誰かが与えるべきでもないし

伺うべきでもないのかもしれないと思った。

吐き出してしまえば終わりのことが多いのだから。

反芻してまで型を取りたい言葉なんて

やはり型を持っていたものでしかなくて

実際には型がないものばかりが溢れかえっている。

私はブログで昔から分からないように

でもそれとなく分かるように

ヒントを残すような感じで書くことが多くて

あまり直接的に物事を書いたためしがない。

その癖が今も抜けないで

たまに私自身を邪魔することもあるくらいに染みついている。

それが今じゃSNSが広がり潜在的

公にさらされているという認識が

たまに抜け落ちている人はいるが

大抵の人には埋め込まれていて

それとなく分からないように

分かる人にはわかるようにと

公にいながら内輪的要素を残したまま

表現をする熟練者になっていたりする。

そうゆう不安定さがまるでシャボン玉みたいで

気づいたときには破裂していて

そこには何もなかったかのようにふるまうことが多い。

短い文字数というのは型を与えたようでいて

実は細い吹き具でしかなくて

そこから放たれた言葉はシャボン玉のように

空へ向かってはいつか破裂していくのだ。

別に何が悪いってわけじゃない。

ただそれが細い吹き具だってちゃんと認識した時に

またどう立ち位置が変わるのだろうと

私の思考がシャボン玉みたいに頭の中で浮かんでは

割れるんだ。