愛している。が足りない

最近、「何も出来ない時間」が好きだなぁ

と思い始めた。

電車の中で短編小説で一つの短編を読み終えた時

次の駅が目的駅であり、次の短編に進むのも

切りが悪いし、とりあえず本を閉じて佇む時間とか。

夜中眠れずに、しかし、なにか事を始めては

それでは余計に眠れなくなってしまうし

ただ単にぼーっとしてしまう時間とか。

ふと何かの拍子に、身体の中心に存在する

芯みたいなものの縁をすーっと流れてきた

泥水が胃の中に含まれて

鈍い温度になってそれに浸る時間とか。

この時間はなにか諦めのようなものに似ていて

自分ではどうすることも出来なければ

どうにかしようとすれば却って

余計に焦りを感じてしまい

事を荒立たせることすらある。

だからすんなりと

諦めのように現実を受け入れて

そこから発生した余韻みたいなものをかみしめたりする。

ただ、家に何もすることがなくいる時間や

病院などでひたすら待つ時間みたいな

「何か出来るだけの時間はあるのだけれど

それだけの暇を潰せるものに検討がつかない時間」

って言うものはなんだか

まごまごしい気持ちになってくる。

これに習って前述の

「何も出来ない時間」って言うのを

ちゃんと明言すれば

「何か目的を果たす能動的行為の過程に生じた

必要不可欠な受動的行為に身を委ねる時間」

が好きなのでしょうかね。きっと。

こんなふうに言葉を並べて

例えを出せば簡単にわかり易い言葉で

説明を出来たとしても

そんな例えも出ずに言葉をつまらせて

難しく並べた言葉も

最早自分のものではないような気がして。

だから、ただ単に「愛している。」と言う言葉だけで

美しいなんてことがあるわけ無いじゃない。

いや、そうじゃなくて足りないのは―――――